キリンジ熱が再来
キリンジ、兄弟で行っていた2人バンドである。
高校の時に出会ってからというもの、CDを普段買わない自分が初めて全て集め、普段ライブには足を運ばない自分が初めてライブにも行った、長年傾倒しているバンドである。
結局は、二人での活動を辞めそれぞれで音楽活動をやっていくという方向性となり、現在は兄弟でやっていた頃の「キリンジ」名義から、
兄の方は「kirinji」
弟の方は「馬の骨」
という名義にそれぞれ分かれたが、私は兄弟で行っていた頃の楽曲がとても好きだ。
簡単に兄弟の特徴を紹介すると、
どちらも作曲・作詞・歌のいずれも行えるが、
弟の方(堀込泰行・ほりごめやすゆき)が、基本的にはその伸びやかな声質でボーカルを担当、
兄の方(堀込高樹・ほりごめたかき)は、自身の歌の不安定な部分をカバーするかのように、作曲は一種の複雑さを帯びた曲作りとサイドボーカルに徹していたのが二人バンド自体の特徴であった。
(兄に関しては、そういった自身のボーカルに対する弱点をカバーするような形で、兄弟解散後は基本的には外部の歌手に自身の楽曲を歌ってもらうという形態を取りつつ現在は流動的なメンバーで活動を行っている。)
曲としてはノスタルジックさと郷愁が滲み出るようでありながら、捻りを加えたコード進行を与えてくれるため、落ち着きを感じながらお洒落な余韻を出すバンドサウンドとなっている。
テンポはどちらかというとゆったりしていると思うが、曲の方向性に囚われず一定のテンポをいずれの曲も刻み続けるため、ランダムに流し続けても耳が疲れず、延々と聞けてしまうのが好きだ。
ただ、それぞれ「ここでこのコードが来るか」「ハモリがこう来るのか」など曲ごとにまた違った技術が垣間見られるため、技術的素養としても充実しており飽きない構成である。
なんせ兄弟二人ともが楽曲を制作できる訳だから、とにかく曲数は多い。
しかし芯としては一定にブレずにたくさんのパターンが存在するという状態である訳だから、そのパターンに翻弄されず、心地よさが残ったまま聞き続けられるのはありがたい。
最近の曲作りの傾向のような、アップテンポかつ同じ作曲者であっても多方面に方向性が散りすぎているラインナップを流し聞きするのは、一曲自体のクオリティは高くとも、全体のテンポや統一感の面を見ると安定感が無い場合がある。
それはそれでしょうがない話ではあると思う。
ただ、インスタントに消化しないで良い時間を作り、音楽を聴けるならば、
キリンジはとても心地良く、今でもずっと気持ち色褪せずおすすめしたいと思う。
と、そういった自分が長らく愛せる曲たちに高校時代に出逢えたことは本当に感謝である。
飽きるまで聴いては時間が経ち、また飽きるまで聞きを繰り返し気づけばもう聞き始めてから15年といったところである。
また、自分の中でブームが再来してきた。
何度目かもう分からないほど繰り返してきたブームに乗るのは気持ちがいい。
特に真価を発揮するのは夜のドライブや夜の街を歩く時。
寂しさや虚しさにポジティブな形で間接的に働きかけてくようなサウンドに癒やされながら、ノスタルジーの余韻を感じるのも、また愉しみの一つである。
今日はキリンジについて書いてみたが、またいつか深掘りしてみながら書いてみたい。
正月から被災
元旦から被災した訳だが、あまり頻繁にも更新出来ていなかったこのブログをひさしぶりに更新しようかと思ったタイミングに被災した。
去年の負荷も相当なものだったが、まさか2024年もいきなりこの調子で始まるとはと、心からびっくりしている。
当初元旦に書いていたブログ内容は、先程確認したところ下書きとして残っていたためそのまま保存した。
内容については、深く書こうとしていたものだから、すぐに追記して公開できるようなものではない。
いつか公開できたらと思う。
最近はどうにも一人の時間を取れないものだから、誤謬含め添削してから内容を充分に記することも、なんなら見返すことすら出来ずにいる状態である。
客観的に見ても非常に良くない状況であるが...
今も数分の時間を利用して更新をしようとしている。
さて、こちらは特に無事であり、もうすっかり日常生活に戻り始めている。
私の住む市街地に関してはすでに1月2日には復旧しているのだから、大変迅速な対応であったと思う。
店も開いている。
一部設備故障にてまだ開店できていない飲食店は、古いビルのテナントのみ確認できたが。
被災時に、避難に必要と思われる物品をバックパックに詰めたが、そろそろその中身を出して生活しなければ、普段の日常を送るに際し不便が出てくる状態になってしまった。
諦めて中身は全て出した。なのでバックパックの中身はすっかり空だ。
バックパックの中身を出してみると、この状況におけるよく分からない諦めの気持ちも出てきてしまうようで、気分が悪い。
しばらく、また、どこまでこの状況は続くのだろう。
歪さに気づきながら、穴の空いたバケツに水を汲むことを、私は意図的に行いながら日々を過ごしている。
人間の仕組みとして、そういった矛盾を感じながら耐えることは難しい仕組みになっていると思うが、それを今行っているのである。
歪さについてはもう"バックパック(諦め)"だ。
余震はもう静まったが、
と書いていたら違うな、今震度5弱が発生した。震源は遠いが、長いゆっくりとした横揺れだった。
このままだと東京に帰れない。
地震の揺れに極端に苦手な人間を置いて、急に私の姿が見えなくなった状態ですら精神が不安定になる人間を置いて行けるのか。
私は養われている身であるからして、勝手な行動は控えなければならないとも思うし、そういった経済的自立が出来ていない自分にも悲しみを覚える。
そもそも、あまりそういった人を不安定にする行為を意図的に行うことにも抵抗がある。
自分の方が参っているのは重々承知だが。
そこが客観的には良いところなのかもしれないが、自分の身だけ考えればデメリットなのかもしれない。
震災と、この地とこの状況が、いつまでも私の前進を妨げようと、ある種の執念のような形で津波のように追ってくるように感じる。
嫌な津波が続いている。
疲れた
死にたい
もうそういう方法で終わらせたいことが山積みすぎる
ギリ耐えすぎる
メンヘラだ...やだなあ
不安だな
不安だよ
人のポケットに入って暴れたい
最近、小さくなった自分が人のポケットの中に入って
大泣きしたり萎れてたり暴れてたり、なんだかそういう夢を見ます。
そのポケットの中で泣いてたりすると、「おーい大丈夫か」と言っていつもつまみ出されるのですが、なんだか安心して、今度はそのつまみ出してきた手のひらの上で今度はジタバタしてみたりなどしています。
大変忙しいです。
誰かの胸ポケット(なのかどうなのか)で思いっきり泣いてみたいという思いが夢になっているんでしょうが、最近はこの夢が現実に起こればなあと思ったりしています。
「あなた、日常でなにか悩みがあるんでしょう。」
「まあそう思いますよね・・・」
胸ポケットの夢はまだ続くでしょう。