「カサンドラ症候群」とそれに起因する「発達障害の脳構造の違い」における仮説
久しぶりにブログを更新します。
今回は同じカサンドラの悩みを抱える人に伝わればと思い、自分の実体験を基に発信します。
ーカサンドラに関しては、現状は改善傾向ではあるが、依然としてメランコリックであるという点については残念ながら変わっていない。
昨年の途中までは自分が被害側にあると仮定される立場にあり、一方ではその後自分が加害側であるという立場に変わり、それからまた、今年の頭に至っては”私が”カサンドラ状態であるという診断を受けるという、紐解きが難しい状態に至っている。
※カサンドラ症候群:カサンドラ症候群とは、家族やパートナーなど生活の身近にいる人がASD(自閉スペクトラム症)(※1)であることが原因で、情緒的な相互関係を築くことが難しく、心的ストレスから不安障害(不安症)(※2)や抑うつ状態、PTSD(心的外傷後ストレス症)などの心身症状が起きている状態を指す言葉です。
私は加害者であり被害者であり、加害者。
そして被害者であり加害者であり、被害者でもある。
ーー「カサンドラ症候群になるということは自分が被害者で相手は加害者なのか?そしてただの被害妄想なのか?」
答えが難しいグレーの道を転びながら歩く自分について、少し考えて行きたいと思う。
今回のブログは、私と類似ケースに陥っている可能性のある人にも読んでもらえるような内容にした。
ぼやかして書いてはいるが、私のストーリーを読んでもらい、葛藤に寄り添える形になれば嬉しい。
|自分が加害をしたかどうか
当時発達障害を当時よく知らず、加害をしたとして、パートナーが公共機関に訴え出たことにより、私はモラハラ・パワハラ認定を受けた。
同居に伴い著しく低い衛生状態への注意や、逸脱した不可解な行動を取ることへの注意が原因とみられる。
率直にまず加害をしたかという話においてはYESだと思う。
(※モラハラパワハラだと本人が思ったら必然的にそうなる点も考慮)
発達障害や特性などについて無知であったことから、本人のできないことを押し付けてしまったため、加害をしている。
「無知」が加害につながってしまったケースであると考えている。
▼原因分析
定型発達(発達障害がない)と、言語化能力に苦手がある特性を持つ非定型発達(発達障害がある)パートナーとの間には特にこのパターンが出現するものと思われる。
今回の場合は、定型サイド(私)が無知であることと、非定型サイドが自分が非定型であるという意識がなかったことから、「すれ違い」と処理されるべきところが、摺合せできなかったことでこの顛末を生んだと思われる。
定型サイドは無知は罪なのか、説明責任が相手の方にあったのではないか?など他責にし、また、非定型サイドは理不尽に怒られるように思い、「なんてモラハラ野郎!」と感じる。
どちらも救われないケースにも思える。
▼それを受けてどう歩んでいくのか
笑ってしまう話だが、私は、「自分は人に加害をせず、これまで生きてきたつもりです!」そういったことを言ってのけそうな顔で生きてきたような人間であった。
自分が恥ずかしいと、今では思うのだが、本当に加害をするつもりは一切なかったため、今回の出来事は頭を後ろから殴られたような感覚であった。
無知における加害がどれほど罪深いものかを知ったのである。
加害をしたか、してないかだけの二者択一の世界ではどんなに言い訳をしたとて、意味のないことである。
「知らないことが罪」どんなに言い訳をしたくともだ。
そして再発防止策として現状は、そういった非定型タイプ(発達障害)の構造とメカニズムの勉強を行っている。
※この勉強と非定型サイドへの実際のフォロー方法については試行錯誤し、荒削りなりにもある程度形になってきているとは思うので、次回あたりで触れたい。
|加害者と同時に被害者でもあるのではないかという意識
しかし、やはりうまく加害者であるということを飲み込めないのも本心である。
相手から特性を説明されないまま、常識的な範囲の行動の指摘をするうちに、「加害者である」とハラスメントとして訴えられてしまうことは、定型発達サイド(発達障害がない)も結構なことであるとは思う。
また、
定型と非定型の組み合わせで生活するとなると、定型サイドはやらないといけないものを見通すピント合わせが早いため、どうしても相手の分までフォローをし続けるような感覚がずっと伴う生活的苦労が伴う。
実際に、非定型サイドのやり残しや散らかしといった後始末を巻き取るような生活が待っている。それを一生やっていくというのは本当に大変なことであるとは思う。
しかしながら、非定型サイドの生きづらさを考えたら、それぐらい巻き取ってあげなよという話でもあるとは頭では理解している。
そう、非定型サイドは苦労が多く、「怠惰」と「できない」の見分けがつかないため余計こちらから加害しやすく、本人たちもそこに難しさを抱えているのだ。
だから、「ちょっとはこれぐらいやってよね。」そう、それが言いたくなる瞬間というものが日常には結構な確率で潜んでいるが、決して言ってはいけない。
定型サイドにとっては一見理不尽な話のようではあるが、それを言う事がそもそもモラハラとして処理されてしまう一旦があり、非定型サイドも苦労している部分である。
明らかな怠惰であると認められない限り、それは言っていけないのである。
そういったことから、私としてはこの小見出で提起した通り
「加害者と同時に被害者でもあるのではないかという意識」というものは発生すると考える。
そして、「加害」と「被害」のどっちつかずのグレーさの曖昧さが心の中でずっと取れない不協和を生む原因(→カサンドラに繋がる)と仮定するに至るのである。
この一連の加害事件については、そもそも私にパーソナリティ障害があるとして医療機関から片付けられた話だったが、
その後継続して受診をしていくうちに、私はカサンドラ症候群の状態にある、という話が出てきた。
カサンドラ症候群について調べていると「なぜこんな謎なことが起こっているのか分からずヒステリーが起こる」ことが書いてあり、
それを見たときには。「ああ、うちで起こったことが載っている!」と、状況の再現度が高いものが載っていたこといたく感動したものである。
ずっと読み進めていけばいくほど、どうしてこうなったかが理解されていき、「まあみんなびっくりして当然よね。構造が分かんなきゃね」なんて呑気に思っていたのだが、
このカサンドラというやつは定型側にしか発生しない状態である。
※ちなみに「カサンドラ症候群」は、現状は特定の構造が発生した「状態」として名称がつけられているだけであり、精神疾患としては認められていないあくまで状態を指すものである。
基本的にはカサンドラは非定型サイドでは起こらない。
「意思疎通ができないと感じて具合悪くなる」のが一般的なカサンドラ症状だが、
それが起こる理由としては
感情を伴うコミュニケーションを欲し社会形成をする定型サイドに対し、
非定型から思ったような感情の乗った応えが返ってこない性質が、相手がASD傾向がある場合起こるからである。
この感情への共感性がない会話になってしまうことを「共感性応答がない」と医療言葉では表現される。
▼非定型と定型の脳構造の違い
■定型:行間や顔色からも感情を読み解き、言語も巧みに扱えるが、時にジョークなど正確ではない言語の扱いもする→感情に重きを置くコミュニケーションスタイル
■非定型:感情をうまく扱えない代わりに言語を巧みに正確に扱い社会形成をすることを得意とする非定型サイド(コンピュータのよう)→他者の感情がわかりにくい分言葉を大切にする ※ASD傾向のタイプの場合
という特徴がある。
▼「定型」と「非定型」とは?
ここまでずっと「定型」と「非定型」という表現を使ってきた。
■定型→定型発達。発達障害だと言われていないタイプの者
■非定型発達→発達障害(ADHD/ASD/LD etc...)があると認められた者。
なぜ発達障害という表現でなく、「非定型」と表現したかについては、
両者は単に脳タイプが違うだけで、人口も「定型」の方が多数派で「非定型」の方が現時点では少数派なだけであるからだ。
その時代時代に求められる能力というのは産業の変化とともに変わってゆく。
その上でその社会に適応しやすい性質を持っているかで「発達障害かどうか」の基準も変わっていくのだ。
今たまたま、自分が多数派の適応できてる組になっているから「定型」
今たまたま、自分が少数派の適応が難しい組になっているから「非定型」となっているだけで、
時代の変化が急激に変われば、自分が「定型」か「非定型」にどちらに転がるか分からない話なのである。
だから、自分が発達なくてよかった!と今喜んでいたとしても数十年後にはどちらが多数派になっているか分からないのである。
「発達障害」と診断するのも元来、その人に合わせた配慮と支援ができるようにするためにそのようにラベリングしているに過ぎない。
▼非定型と定型という概念を得た上で求められるもの
いつ自分が障害を抱えたり、なにか目にはみえづらい苦労を手に入れるのかも、非定型とラベリングされるのかも、未来は分からない。
今の非定型が多数派になる可能性もある(単純に脳構造と脳回路の使い方が違うだけなので)
確かに子供に障害がある!と思ったら親は悲しむかもしれない、不幸にさせてしまってないかと心配するかもしれない。
ただ、たまたま少数派の方に生まれてしまったというだけで、その子が長期的に不幸かどうかというところまでは分からないなと思うのである。
プログラムやデータベースなどを取扱うならば、きっと非定型の方が有利だ。
そして「どちらが多数派」かは時代とともに変わり、いつ自分が少数派になり「発達がある」と見做されるかも分からない話である。
発達障害については、生存競争における種の優劣と捉える人が多いが、
単純に脳タイプが違うという捉え方をしておくのがいいと思う。
|課題
- カサンドラを抜けるには
- 「定型」と「非定型」が相互理解をするには
どちらも同じ共通課題を持つ。
基本的にカサンドラ改善に関する本の末尾は「離婚するか、別居」の選択肢しかない。
それしか事例として観測することがないのである。
ただ、【定型脳=Aとする】【非定型脳=Bとする】場合
今はAが多数派だからBが虐げられるだけであまり揉めてはいないものの、
AとBの比率が近づく未来線も勿論ある。
ずっと「相互理解を諦める」しか解決策がなかったらいつか困る時代が来るのではないかと思うのである。
夫婦やパートナーといった限定的な密接な関係だけでなく、AとBが相互的に会話する際にきちんと意図を伝え合い、尊重しあえる世界にいつかはしないといけないと思うのである。
相互理解を諦めてたらAとBではお互いに読み違いを起こして私のような例になり、そして規模が大きくなればそれは極端な話戦争まで発展する可能性だってある。
どうしたら相互理解ができるか、「その先」の解決策まで示している文献まで私がなかなかたどり着けていない。
医療機関の専門医なら本当にすべて解決策が挙げられるのだろうか?
実際はそうとは限らない。
私の場合は、その精神科の専門医から「離婚」を勧められ、その意見にも納得する一方、
全体を見るとこう、「そんな短絡的解決でいいのだろうか」と思うのである。
なぜAとBが相互理解における解決策までまだ示されていないのかについては、
仮説ではあるが、相互理解の成功ケースが少ないことと、
それが万が一成功している家庭や関係性があったとしても、「困り事として本人たちが処理をしない限り、医療機関や研究機関に情報提供はされない」ということも
医療の情報発展が進まない原因にあると思われる。
私の願いとしては、
自分のパートナーとの関係改善という狭い問題だけにとどまらず、広く人と円滑に誤解なく理解し合えるようになれることを望んでいる。
どこまで自分が出来るかは分からないが、ここに気づいたことを記していくことで、情報を必要としている人に届いたり、このような題材に縁遠い人に関しても何かしらの気づきになればと思うのである。
次回については何を書くかは決めていないが、
相手が非定型であった場合の効果的と思われたフォロー内容などにについて触れてみたいと思う。
キリンジ熱が再来
キリンジ、兄弟で行っていた2人バンドである。
高校の時に出会ってからというもの、CDを普段買わない自分が初めて全て集め、普段ライブには足を運ばない自分が初めてライブにも行った、長年傾倒しているバンドである。
結局は、二人での活動を辞めそれぞれで音楽活動をやっていくという方向性となり、現在は兄弟でやっていた頃の「キリンジ」名義から、
兄の方は「kirinji」
弟の方は「馬の骨」
という名義にそれぞれ分かれたが、私は兄弟で行っていた頃の楽曲がとても好きだ。
簡単に兄弟の特徴を紹介すると、
どちらも作曲・作詞・歌のいずれも行えるが、
弟の方(堀込泰行・ほりごめやすゆき)が、基本的にはその伸びやかな声質でボーカルを担当、
兄の方(堀込高樹・ほりごめたかき)は、自身の歌の不安定な部分をカバーするかのように、作曲は一種の複雑さを帯びた曲作りとサイドボーカルに徹していたのが二人バンド自体の特徴であった。
(兄に関しては、そういった自身のボーカルに対する弱点をカバーするような形で、兄弟解散後は基本的には外部の歌手に自身の楽曲を歌ってもらうという形態を取りつつ現在は流動的なメンバーで活動を行っている。)
曲としてはノスタルジックさと郷愁が滲み出るようでありながら、捻りを加えたコード進行を与えてくれるため、落ち着きを感じながらお洒落な余韻を出すバンドサウンドとなっている。
テンポはどちらかというとゆったりしていると思うが、曲の方向性に囚われず一定のテンポをいずれの曲も刻み続けるため、ランダムに流し続けても耳が疲れず、延々と聞けてしまうのが好きだ。
ただ、それぞれ「ここでこのコードが来るか」「ハモリがこう来るのか」など曲ごとにまた違った技術が垣間見られるため、技術的素養としても充実しており飽きない構成である。
なんせ兄弟二人ともが楽曲を制作できる訳だから、とにかく曲数は多い。
しかし芯としては一定にブレずにたくさんのパターンが存在するという状態である訳だから、そのパターンに翻弄されず、心地よさが残ったまま聞き続けられるのはありがたい。
最近の曲作りの傾向のような、アップテンポかつ同じ作曲者であっても多方面に方向性が散りすぎているラインナップを流し聞きするのは、一曲自体のクオリティは高くとも、全体のテンポや統一感の面を見ると安定感が無い場合がある。
それはそれでしょうがない話ではあると思う。
ただ、インスタントに消化しないで良い時間を作り、音楽を聴けるならば、
キリンジはとても心地良く、今でもずっと気持ち色褪せずおすすめしたいと思う。
と、そういった自分が長らく愛せる曲たちに高校時代に出逢えたことは本当に感謝である。
飽きるまで聴いては時間が経ち、また飽きるまで聞きを繰り返し気づけばもう聞き始めてから15年といったところである。
また、自分の中でブームが再来してきた。
何度目かもう分からないほど繰り返してきたブームに乗るのは気持ちがいい。
特に真価を発揮するのは夜のドライブや夜の街を歩く時。
寂しさや虚しさにポジティブな形で間接的に働きかけてくようなサウンドに癒やされながら、ノスタルジーの余韻を感じるのも、また愉しみの一つである。
今日はキリンジについて書いてみたが、またいつか深掘りしてみながら書いてみたい。
正月から被災
元旦から被災した訳だが、あまり頻繁にも更新出来ていなかったこのブログをひさしぶりに更新しようかと思ったタイミングに被災した。
去年の負荷も相当なものだったが、まさか2024年もいきなりこの調子で始まるとはと、心からびっくりしている。
当初元旦に書いていたブログ内容は、先程確認したところ下書きとして残っていたためそのまま保存した。
内容については、深く書こうとしていたものだから、すぐに追記して公開できるようなものではない。
いつか公開できたらと思う。
最近はどうにも一人の時間を取れないものだから、誤謬含め添削してから内容を充分に記することも、なんなら見返すことすら出来ずにいる状態である。
客観的に見ても非常に良くない状況であるが...
今も数分の時間を利用して更新をしようとしている。
さて、こちらは特に無事であり、もうすっかり日常生活に戻り始めている。
私の住む市街地に関してはすでに1月2日には復旧しているのだから、大変迅速な対応であったと思う。
店も開いている。
一部設備故障にてまだ開店できていない飲食店は、古いビルのテナントのみ確認できたが。
被災時に、避難に必要と思われる物品をバックパックに詰めたが、そろそろその中身を出して生活しなければ、普段の日常を送るに際し不便が出てくる状態になってしまった。
諦めて中身は全て出した。なのでバックパックの中身はすっかり空だ。
バックパックの中身を出してみると、この状況におけるよく分からない諦めの気持ちも出てきてしまうようで、気分が悪い。
しばらく、また、どこまでこの状況は続くのだろう。
歪さに気づきながら、穴の空いたバケツに水を汲むことを、私は意図的に行いながら日々を過ごしている。
人間の仕組みとして、そういった矛盾を感じながら耐えることは難しい仕組みになっていると思うが、それを今行っているのである。
歪さについてはもう"バックパック(諦め)"だ。
余震はもう静まったが、
と書いていたら違うな、今震度5弱が発生した。震源は遠いが、長いゆっくりとした横揺れだった。
このままだと東京に帰れない。
地震の揺れに極端に苦手な人間を置いて、急に私の姿が見えなくなった状態ですら精神が不安定になる人間を置いて行けるのか。
私は養われている身であるからして、勝手な行動は控えなければならないとも思うし、そういった経済的自立が出来ていない自分にも悲しみを覚える。
そもそも、あまりそういった人を不安定にする行為を意図的に行うことにも抵抗がある。
自分の方が参っているのは重々承知だが。
そこが客観的には良いところなのかもしれないが、自分の身だけ考えればデメリットなのかもしれない。
震災と、この地とこの状況が、いつまでも私の前進を妨げようと、ある種の執念のような形で津波のように追ってくるように感じる。
嫌な津波が続いている。
人のポケットに入って暴れたい
最近、小さくなった自分が人のポケットの中に入って
大泣きしたり萎れてたり暴れてたり、なんだかそういう夢を見ます。
そのポケットの中で泣いてたりすると、「おーい大丈夫か」と言っていつもつまみ出されるのですが、なんだか安心して、今度はそのつまみ出してきた手のひらの上で今度はジタバタしてみたりなどしています。
大変忙しいです。
誰かの胸ポケット(なのかどうなのか)で思いっきり泣いてみたいという思いが夢になっているんでしょうが、最近はこの夢が現実に起こればなあと思ったりしています。
「あなた、日常でなにか悩みがあるんでしょう。」
「まあそう思いますよね・・・」
胸ポケットの夢はまだ続くでしょう。